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トマトはトマト

ついつい人間は幸せや楽しい気持ち 
逆に不幸や怒り嫌な気持ちになる事を
誰かから与えられたり外的な要因に寄って
そういう気持ちに「させられる」ものだと思いがちだけど 
実はそれらの感情は全て自分の中で作り出し選び取っているだけなのだ

例えば 誰かが突然
「トマトをあげる!」
と自分に向って投げて来たとして

トマトが大好きな人なら
「わあ!トマトくれるんだ ありがとう!」
と幸せな気持ちになるであろうし

トマトが大嫌いな人なら
「なんだよ トマトなんか投げて来て嫌がらせか」
と怒ってしまうかもしれない

また用心深い人なら
「トマトなんて知らない人からもらっても気持ち悪いわ」
と気分を害してしまうかもしれない

どの場合もトマト(要因)は変わらない トマトのまま
トマトを投げた人は 
相手が喜ぶだろうと思って投げたかも知れないし
相手に嫌がらせをしようと思って投げたかも知れない
あるいは特に何も考えずにただ投げただけかも知れない
(又 喜んでもらおうと投げたトマトを「要らない」と投げ返されたり
間違って頭にぶつけてしまって怒られたり 
気づかれずに落ちて踏みつけられてしまったり 
というような事だって大いにあり得るのだ)

結局のところ投げた側の意図や感情は受けた側と常にイコールではないのだ

トマトは受け取る側に寄って
どういう感情を選ぶかに寄って
幸にも不幸にも喜びにも悲しみにも怒りにもなるわけである

つまりトマトはトマトに過ぎない

トマトはトマトなのであって
またトマトを投げた人はトマトを投げた人なのであって
それ自体=喜びでも悲しみでも憎しみでもないのだ

自分に向ってわけの分からない事で怒鳴る上司も
目の前で危ない運転をするドライバーも
突然別れを告げるガールフレンドも
頭にトリのフンが落ちる事も
希望の大学に落ちることも
(なかなか難しいことだが)
それ自体は ただのトマトなのであって 不幸ではない
要因やきっかけにはなり得るがイコールなのではない
 
冷静に考えてみれば
トマト自身は人を不幸にする事も幸せにする事も出来ない
だって トマトはトマトなのだから!

トマトと自身の感情を切り離して考える事は
時にはとても難しい事でもあるけれど
(なぜなら要因はトマトのような可愛いものではなく
暴力などもっと明らかに悪意のようなものもあるだろうから)
やっぱり何を投げられても
最後に感情を選ぶのは自分
その感情に寄って幸せになるのも不幸になるのも自分

出来うる限り何事に対しても前向きな感情を選びとるよう注意して
それが難しくとも せめて後ろ向きになりそうな時は
「なんでもないことである」
「小さなことにこだわるには人生短すぎる」
くらいには思えるようでいたいものである
きっとそれが幸せに生きる秘訣
幸せを選ぶも不幸を選ぶもこれまた自分次第なのである

まあ トマト=幸福 と思える場合は
混合したままで大いに結構だと思うけれど
(ようするに幸せならば何でもよし)
もしひょっと トマト=不幸 
と混合しそうになったなら
「トマトはトマト」
と呟いてみるとよい
一体どうして自分はトマトのせいで
そんなに怒ってみたり悲しかったりしたんだろうと思えたりする
(少なくともオイラは)


トマトはトマト 

それ以下でもそれ以上でもないのだ 

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2009年06月01日 10:15に投稿されたエントリーのページです。

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